硫黄によって生まれた「雲上の楽園」の栄枯盛衰を偲ぶ

硫黄によって生まれた「雲上の楽園」の栄枯盛衰を偲ぶ

岩手県八幡平市には、東洋一の硫黄鉱山で「雲上の楽園」と言われた、松尾鉱山がありました。かの鉱山の栄枯盛衰を偲びながら、硫黄が齎す功罪を述べていきます。

はじめに

松尾鉱山は、時代の変化に伴って事業環境が大幅に変化し、花形産業の製品が急激に衰退期になった時、事業ポートフォリオが一つしかない企業がどうなるかを示す実例です。
これは、松尾鉱山の盛衰の歴史と、硫黄が齎した功罪を、第三者視点から見る記事です。

松尾鉱山の盛衰

前史

1883年、旧松尾村の佐々木兄弟が、硫黄の大露頭を発見。1888年7月、鉱山試掘願を役所に提出し、同年8月15日に鉱業権取得。しかし、当時の八幡平地域は密林地帯で、佐々木兄弟の力では鉱山開発どころか、密林を切り開くことすらままならず、鉱業権を仲間に売却されたり、他の競争者が現れたりと、ほぼ未開のまま鉱業権は転々としました。
それから時は流れ1907年頃、鉱業権は押野常松氏に渡り、代理で小貫養三氏に鉱山が任されます。小貫氏は、松尾地区畑集落への輸送路設置を進めていき、鉱石が人力運搬可能になったことで採掘が始まり、鉱山が開かれました。

栄光への道のり

松尾鉱業株式会社の誕生

本格的に鉱山が開かれたものの、精錬窯故障や冬期操業見込みを上回る出費、賃金不払いによる鉱山労働者出奔等、廃山危機に直面します。
当時、鉱業権を持っていた永井久太郎氏は、教え子で、横浜の貿易商で増田屋を営む中村房次郎氏に、資金援助を依頼。1914年、その経営改革と鉱山開発をするために、彼は松尾鉱業株式会社を設立して、初代社長に就任しました。

本格的な生産体制の確立

中村氏は、応用地質学の第一人者であった巨智部こちべ博士に地質や鉱床の調査を依頼。その結果、硫黄鉱石埋蔵量は、最低でも61万トンに上ることが明らかになります。これは、1911年の1ヶ月の生産計画量が120トンであったことから、420年以上採掘できる計算です。当鉱山の優秀性を確信した彼は、さっそく開発に乗り出しました。
標高900メートルの元山に、事務所・倉庫・荷造場・住宅等を建設し、麓の屋敷台との間に道路を切り開き、ハリジー式架空索道を新設。本格的な鉱石輸送路を整備したことで、生産が軌道に乗り出しました。

ハリジー式架空索道

世界恐慌の余波

中村氏が整備を進めて生産体制を軌道に乗せたものの、硫黄鉱山開発の道のりは厳しいものになります。
1920年、世界恐慌の影響で、松尾鉱業株式会社の親会社である増田屋が倒産し、担保の松尾鉱山は取引銀行に差し押さえられ、閉山の危機に陥ります。さらに、アメリカ発の採掘製錬技術「フラッシュ法」が世界を席巻したことで、日本にある多くの鉱山が閉山に追い込まれることになり、松尾鉱山の経営も同様に厳しくなりました。

東洋一の硫黄鉱山へ

中村氏の尽力で、債務整理後に松尾鉱山は無事返還されましたが、1921年に彼は社長を退任。その後、社長空席のまま厳しい経営状況の下で、松尾鉱業株式会社は自立再建を目指しました。手始めに、会社運営機構や職制等を刷新し、経理事務の近代化と、需要のある硫化鉄鉱販売にも着手。販路を広げて生産拡大し、経営立て直しを図りました。また、亜硫酸ガス煙害問題解決のため、硫黄実収率が底上げされた石炭火力の改良型焼取製錬窯に置き換えて、新生産体制を築きました。
この頃、硫黄を素材とする国内の化学繊維鉱業や製紙工業が急速発展したことで、硫黄の供給先が安定したため、さらに生産を拡大させました。そして、1925年には、硫黄生産量約2万トン、従業員約600人を数える日本一の硫黄鉱山となりました。

黄金期の理想郷

最先端設備のアパート群

第二次世界大戦後の混乱が落ち着いた頃、硫黄需要が再燃して労働者確保が急務となり、福利厚生施設を充実させることになります。そのため、1951年から翌年にかけて、当時最先端だった水洗トイレ・セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリート造集合住宅「緑ヶ丘アパート」群が竣工されました。

緑ヶ丘アパート

山のデパート「用度」

1914年の松尾鉱山株式会社創設時から、「用度ようど」と呼ばれる会社直営の生活物資販売所が、鉱山事務所付近と他三ヶ所に設けられました。
当初は、当時の市町村から商品を仕入れていましたが、少しずつ販売営業を専門業者に委託することで取り扱い品目が充実。その商品も仕入れ値で販売する大盤振る舞いです。1956年に、全売り場がデパート形式に改装・近代化されました。

山のデパート「用度」

有名芸能人が公演する劇場

1951年に、暖房・照明設備・防音装置を完備し、座席数800を有する鉄筋コンクリート造の劇場「老松会館」を建設。さらに翌年、鉱山の麓にも、バルコニー付きで当時の近代設備完備の座席数450を有する劇場「友愛ホール」を建設。どちらの劇場でも、映画上映・劇・音楽会等が催され、当時の有名芸能人も次々と公演し、多くの人を楽しませました。

劇場「友愛ホール」

近代的医療が処置できる病院

1953年に、地上3階地下1階建てのコンクリート造の総合病院「松尾鉱山病院」を建築。地下の厨房室から3階の病室までの食事運搬用リフトが配備され、患者用ベッドをエレベーターでそのまま3階病室まで搬入でき、最新式断層写真が撮れるレントゲンもある等、当時の近代設備を完備。松尾鉱山病院には、他と比べて最新の設備があり、優秀な先生も多かったため、盛岡から診察を受けに来た人もいたそうです。

松尾鉱山病院 屋敷台分院

栄華の終焉

エネルギー革命

1950年代に、中東やアフリカで相次いで大油田が発見され、世界的に潤沢に石油が供給されていました。戦後の日本では外貨割当制度により輸入規制がありましたが、1962年に原油輸入が自由化。同年、政府は石炭から石油中心のエネルギー政策に舵を切り、主なエネルギーとして供給されていくようになります。

止めを刺した「回収硫黄」

硫黄等の不純物を含んだままの原油を利用したことで有害な亜硫酸ガスが発生し、四日市喘息の原因となりました。結果、1967年に公害対策基本法が施行され、原油から硫黄を取り除くことが義務付けられました。この対策で、安価で大量の回収硫黄が市場に流通し、硫黄鉱石の需要は完全に消滅しました。
松尾鉱山もその影響を受けて経営が悪化し、1969年に会社更生法を申請して倒産。その後、1972年に鉱業権が放棄され、完全な閉山となりました。

硫黄が齎した功罪

硫黄は、火山周辺等に存在し、単体では無臭の黄色い結晶を作る元素で、ヒトの身体を構成するアミノ酸にも含まれています。

硫黄の価値と用途

明治初期までは、マッチのようなつけ木や薬品に限られた用途でしたが、20世紀初頭に化学産業が盛んになると、化学繊維や製紙用パルプ等の原料用途となり、生産量も飛躍的に増えました。硫黄化合物には色々と用途があり、抗菌作用を持つ亜硫酸ガスであれば、食品保存料や漂白剤等に使用され、硫酸は洗剤等の界面活性剤・金属精錬の電解液・過リン酸石灰・硫安等の生成に使用される、重要な資源です。

水質汚染と財政負担

大量の強酸性水が、松尾鉱山から北上川の支川である赤川に流出し続け、暫定対策として中和剤を直接投入する処理も行われました。しかし、北上川の汚濁問題は継続し、大きな社会問題になったため、1976年に各省庁が対策検討した結果、水質改善用大規模中和施設の建設が決定します。
施設は、1982年から現在まで24時間365日稼働し続け、毎分約17トンの中和処理を行っています。建設と同時期に、坑内水・浸透水を減少させる発生源対策工事も実施。これにより、北上川の水質は改善されました。しかしながら、年々処理原水の水質改善が進み運用コストが減少し続けていますが、今も変わらず年間処理費用の負担が発生しています。

旧松尾鉱山新中和処理施設

おわりに

石炭から石油へのエネルギーシフトで四日市喘息が流行し、その公害対策で生まれた回収硫黄の流通で、松尾鉱山は消滅するに至りました。これは、バタフライ効果や「風が吹けば桶屋が儲かる」の実例と言えます。このような影響に巻き込まれないように、世界情勢の変化に注視していきたいものです。

参考文献

硫黄によって生まれた「雲上の楽園」の栄枯盛衰を偲ぶ

https://blog.chaotic-notes.com/articles/reminisce-paradise-above-the-clouds/

作者

Hiroki Sugawara

投稿日

2025-01-06

更新日

2025-01-06

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