「目蒲線物語」の歌詞から鉄道の今昔の変遷を見る

「目蒲線物語」という最強の鉄道ネタソングがあります。
世の中にはこんな曲があるのかと、始めて聴いた時の衝撃は、今でも忘れられません。
その曲中に登場する鉄道の今昔の変遷に興味が沸いたので、調べてまとめてみました。

はじめに

「目蒲線物語」は、1983年に発売された、コミックソングと呼ばれるジャンルの曲です。
発売された時期が最近であったら、東急・東武・JR・それらの利用者から苦情が出て、ネットなど方々で炎上しそうな皮肉たっぷりの歌詞です。
とはいえ、昭和後期の鉄道事情を考察するための良い資料に成り得るかもしれません。
なので、今昔の変遷を調べるだけではなく、皮肉たっぷりのコミカルな歌詞と照らし合わせながら、その真偽も確かめてみようと思います。

目蒲線の今昔

東急目蒲線

(せりふ)
    ぼくの名前は東急目蒲線
    父さんは東急東横線 母さんは東急田園都市線
    そしてぼくに弟が出来た 東急新玉川線
    父さん母さんにそっくりのシルバーメタリックの
    綺麗な電車だ!
    それに比べてこのぼくは 草色の醜い3両編成・・
 
(♪) ぼくの名前は目蒲線 さみしい電車だ目蒲線
    あっても無くてもどうでもいい目蒲線
 
    だけどプライドはあるんだよ 田園調布を走ってる~
    けど 田園調布の人はみんな東横線を使う
    東急から~見放~され 今時クーラーも付いてな~い
    夏は暑くてサウナ~風呂 そのくせ冬は冷~蔵~庫

出典:ざ・目蒲線物語

東急目蒲線は、目黒駅(東京都品川区)から蒲田駅(東京都蒲田駅)までを結ぶ、過去に存在した東急電鉄の鉄道路線です。
この路線は、東急電鉄の母体であった目黒蒲田電鉄が、洗足田園都市のための交通機関として、最初に開業させた歴史ある路線でした。
それから時を経た昭和後期に、東横線の混雑緩和対策として、目蒲線目黒駅・多摩川駅間のバイパス路線整備計画が立案・実行されます。
これが結実した2000年の夏に、目蒲線は、目黒駅・多摩川駅間の目黒線と、多摩川駅・蒲田駅間の多摩川線の二つに分離されました。

1980年頃は、草色の三両編成の運用だったようです。
その車両に冷暖房装置はなく、車内のアコモデーションレベルは最低クラスでした。
過去にタイムスリップすることがあっても、夏や冬の目蒲線には乗りたくないですね。

ちなみに、夏に冷房がない車内を追体験したいのであれば、山万ユーカリが丘線がおすすめです。

東急目蒲線

東急目黒線

前身である東急目蒲線の目黒駅から多摩川駅までの間を受け継いだ鉄道路線です。
目蒲線の分割時に、武蔵小杉駅(神奈川県川崎市中原区)まで、その後の2008年に、日吉駅(神奈川県横浜市港北区)まで延伸。
現在は、北は東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線と都営地下鉄三田線、南は相鉄線と直通しています。
目黒線は、東横線や田園都市線に次ぐ主力級の路線として大成長を遂げました。

東急目黒線

東急多摩川線

前身である東急目蒲線の蒲田駅から多摩川駅までの間を受け継いだ鉄道路線です。
大出世を果たした目黒線とは打って変わって、目蒲線時代の都心のローカル線という性質を色濃く受け継いでいます。
多摩川線は、延伸もなく、他社路線直通もないため、車両が新しくなったことを除けば、今も昔も変わらないままといえましょう。

東急多摩川線

他の鉄道路線の今昔

このセクションでは、「目蒲線物語」に出演する兄「東急池上線」、父「東武東上線」、母「赤羽線(埼京線)・南武線」を登場順に説明します。
歌詞中に一瞬だけ名前が出る、東急東横線、東急田園都市線、東急新玉川線、東急世田谷線の4路線に関しては触れませんので、ご了承ください。

兄 東急池上線

(兄) おまえの兄貴 東急池上線だ
    おまえはまだいいぞ 目黒から出ている
    俺なんかおまえ 五反田だ五反田(ポヨヨ~ン)

出典:ざ・目蒲線物語

東急池上線は、五反田駅(東京都品川区)から蒲田駅(東京都大田区)までを結ぶ、東急電鉄の鉄道路線です。
この路線は、池上本門寺の参詣客輸送を目的に、目黒から池上を経て大森へ至る計画で、池上電気鉄道が開業させました。

池上線の全線開業までの道のりは、遠く厳しかったようです。
池上電気鉄道は、大森付近での用地取得の難航、資金難による目黒駅からの建設難航、支援者の私物化の問題を、創業時から抱えます。
そうこうしている内に、目黒蒲田電鉄が、目黒駅・蒲田駅間を結ぶ目蒲線を全線開業。
目黒駅から五反田駅へ起点変更を余儀なくされながらも、池上線は全通を果たします。
しかし、その頃には目黒蒲田電鉄に経営地盤で後塵を拝しており、最後は買収と相成りました。

また、戦後の一時期、泉岳寺線(桐ケ谷駅・三田線泉岳寺駅間)を新規開業し、三田線と計画線の東武高島平線を経由し、東上線に直通する計画がありました。
この計画が遂行されていたら、池上線が東急の主力級路線に成長していたかもしれません。
そのまま白紙となり、今では三田線は目黒線と直通し、池上線にとっては泣きっ面に蜂状態です。

歌詞に登場する路線で、目蒲線(目黒線)により数多の困難に見舞われた悲劇の路線です。
東急池上線を目蒲線の兄とした理由は、蒲田駅を始発駅としているからでしょう。
けれども、歴史を紐解けば、なんという皮肉でありましょうか。
現在では、既に今は昔のことなのか、弟の半身の東急多摩川線と新型車両を仲良く共用しています。

東急池上線

父 東武東上線

(目) 駅が5つか6つ過ぎると全~部埼玉になってしまう
    あの東武東上線?
    忘れ物にクワとスコップがいちばん多いという
    東武東上線?

出典:ざ・目蒲線物語

東武東上線は、池袋駅(東京都豊島区)から寄居駅(埼玉県大里郡寄居町)までを結ぶ、東武鉄道の鉄道路線です。
下り始発の池袋駅から見て埼玉県で最初の駅は、和光市駅です。
この駅までは、北池袋、下板橋、大山、中板橋、ときわ台、上板橋、東武練馬、下赤塚、成増と、9駅通過する必要があります。
これらの駅は、第二次大戦前に全て開業済みであり、1980年前後と2024年前後で変わりません。
そのため、だいぶ悪い方に誇張された歌詞であることが分かります。

また、第二次大戦後の食糧不足で、川越地方にあるサツマイモ畑に人々が買い出しに押し寄せたことから、東武東上線は「いも電車」の愛称で呼ばれていました。
これにより、「沿線民は農家」という連想を経て、「忘れ物にクワとスコップがいちばん多い」という歌詞が生み出されたのではないか、と推測できましょう。

東武東上線

母 赤羽線・JR埼京線

(母) 母さん余った電車で繋ぎ合わされているから
    赤だの黄色だの緑だのってバランバラン
(目) ぼくの本当の母さんって誰なの?
(母) 赤羽線よ
(目) えっ あの池袋の駅を出ると板橋 十条 赤羽の
    たった4つしか走ってないという あの赤羽線

出典:ざ・目蒲線物語

国鉄赤羽線は、JR埼京線の前身となる鉄道路線です。
当初は山手線でしたが、山手線が環状運転を開始し、運行系統が変化したことで誕生します。
池袋、板橋、十条、赤羽の4駅だけの短い路線で、1985年に川越線直通の埼京線が開業するまで、赤羽線と呼ばれました。

この路線は、山手線の支線という立ち位置であり、投資のウェイトが低かったことから、つぎはぎな混色編成が見られたのではないかと思います。
これは今でいうと、色々な路線からお下がりの電車を貰う武蔵野線のようなポジションでしょうか。
現在では、新車が導入されて、混雑率が140%前後となる重要な路線に成長しており、東急目黒線と同じく出世した路線と言っても過言ではありません。

さて、この歌詞の中で今でも変わっていないことがあります。それは「バランバラン」なことです。
どういうことかというと、埼京線は、山手線、赤羽線、そして東北本線を繋ぎ合わせたものだからです。
なので、今は、路線を走る電車ではなく、電車の走る路線が「バランバラン」なのです。

JR埼京線

母 南武線

(せりふ)
そして継ぎ接ぎだらけの母さんは休みの日
目黒に方に遊びに行ったのですが
道に迷って川崎の方まで行ってしまい
後に母さんは継ぎ接ぎだらけの電車
南武線になってしまったそうです

出典:ざ・目蒲線物語

南武線は、川崎駅(神奈川県川崎市川崎区)から立川駅(東京都立川市)までを結ぶ鉄道路線です。
古くは茶色の旧型国鉄電車が走っていましたが、1980年前後から歌詞にあるように他路線から転入した電車が走るようになります。
それからは同じように他路線から転入した電車をお下がりで使っていましたが、2014年秋頃から新車が導入されました。

JR南武線

おわりに

ひとこと

ひと昔前に「あっても無くてもどうでもいい」と歌われた目蒲線は、今では「なくてはならない重要な」目黒線に大成長しました。

参考文献

本記事は、下記の文献を参考に作成しています。

「目蒲線物語」の歌詞から鉄道の今昔の変遷を見る

https://blog.chaotic-notes.com/articles/look-past-and-present-from-mekamasen-story/

作者

Hiroki Sugawara

投稿日

2024-01-22

更新日

2024-01-22

ライセンス